LOGIN青い燐火が、濡れた岩壁を這っていた。
その頼りない明かりの下を、五つの影が奥へ進んでいく。先頭の四人がまとう白銀の鎧も神官衣も、旅立ちの日の形を保っていた。
最後尾に伸びた影だけが、背負った荷のせいで人の形を失っていた。
《天葬奈落》第六十二階層。
リュゼル・クレインは、四人分の食料と天幕、鍋、油、縄、予備装備、回復薬を詰め込んだ背負い籠を支え、剥がれかけた靴底を引きずっていた。革紐の下では肩の皮膚が裂けている。乾いた血と新しい血が重なり、歩くたびに粗い麻布が傷口を削った。
足を止めれば置いていかれる。それだけは身体に染みついていた。
「まだか、荷物持ち」
塔盾の騎士ガルディスが振り向いた。赤褐色の短髪の下で、暗緑色の目が苛立たしげに細められる。
「申し訳ない。すぐに追いつく」
答えた途端、喉の奥へ鉄の味が上がった。先ほど皆より先に罠を確かめ、毒針を受けている。三本の解毒薬はセルヴァンとミレアナのために残せと命じられていた。
「口を動かす暇があるなら脚を動かせ。役立たずを連れているだけでも、一行の恥なのだ」
「ガルディス、そんな言い方はよせ」
勇者セルヴァン・アルディオスが、青い外套を翻して振り返った。金髪に縁取られた顔には、王都の広場で民衆へ手を振る時と同じ爽やかな微笑が浮かんでいる。
「リュゼルも懸命に務めている。剣も魔法も使えない彼が僕たちとここまで来られたのは、立派なことじゃないか」
褒められたはずなのに、胸の奥が冷えた。
炎術師エルディンが小さく笑った。セルヴァンの言葉はいつも、リュゼルを庇いながら、その立場が全員より低いことを確かめさせた。
「セルヴァン、少しだけ待ってもらえないか。右の靴を縛り直したい」
「神器は目前だ。休息なら手に入れてからにしよう」
「ですが、リュゼルさんのお肩……」
聖癒術師ミレアナが振り向いた。蜂蜜色の巻き髪が白い頬へかかり、黄緑色の瞳が傷に注がれる。彼女は痛ましそうに眉を寄せ、聖杖を握る指へ力を込めた。
「出血しているのが見えるわ。とてもお辛そう」
「浅い傷だ。迷惑はかけない」
「そんなふうに我慢なさらないで」
優しい声だった。
けれど聖杖の先に、癒やしの光は灯らない。
ミレアナは困ったように睫毛を伏せた。
「私の魔力も半分を切っています。どのような守護者が神器を守っているか分からない以上、戦えない方へ使う余裕は……ごめんなさい。あなたなら、皆の命を優先してくださいますよね?」
「ああ。分かっている」
「よかった」
彼女は心から安堵したように微笑み、セルヴァンの隣へ戻った。二人の肩が近づき、白い袖と青い外套が触れ合う。
リュゼルは剥がれた靴底へ荷縄を巻き、遠ざかる足音を追った。革紐が傷へ沈み、視界が一瞬白く染まる。
十数歩進んだところで、壁の燐火が途切れた。
代わりに現れたのは、黒ずんだ線刻だった。
頭を垂れる六人の王と、その中央に立つ無数の腕を持つ女。輪を描く古代文字の溝には、銀色の粉が残っていた。
リュゼルは足を止めた。
遠征前、大神殿の書庫で神器の写本を読み漁った。その中に、これとよく似た紋様があった。
ただし、神器の所在を示す印ではない。
近づいてはならないものを、後世へ警告するための墓封じだった。
「待ってくれ」
四人の歩みが止まる。
「この紋様はおかしい。神器へ続く道標じゃない。封印区域を示している」
セルヴァンの横顔から、笑みが薄れた。
「何を根拠に?」
「中央の女像だ。六王封魔録の挿絵にあった。《千腕の骸母》を封じた印と似ている。それに文字の向きも、奥へ導くものではなく、内側から出さないための――」
頬に硬い拳がめり込んだ。
身体が壁へ打ちつけられ、籠の中で硝子瓶が鳴った。唇から血が落ちる。
ガルディスが拳を開閉しながら見下ろしていた。
「立場をわきまえろ」
「ガルディス……」
「勇者殿の決断へ、荷物持ち風情が異を唱えた。誰のおかげで奈落へ入れたのかも忘れたらしい」
リュゼルは壁へ手をついて立った。殴られた頬が熱い。
「俺のことはどうでもいい。だが、封印が弱っているなら、進んだ全員が――」
「もうよしましょう」
ミレアナの声が、静かに割って入った。
「これ以上争って、皆の心が乱れるのは悲しいことです。リュゼルさんも、セルヴァンを信じてください。彼は神に選ばれた勇者なのですから」
その目は穏やかだった。頬を伝う血を見ながら、傷を負わせた者を咎めようとはしない。
「……神に選ばれた者は、誤らないのか」
ミレアナの笑みが凍った。
セルヴァンは一歩近づき、リュゼルの肩へ手を置いた。ちょうど裂けた傷の上だった。白い手袋越しに圧が加わり、息が止まる。
「心配してくれるのは嬉しいよ。けれど、ここで引き返せば、多くの民を失望させる。僕は君を幼なじみとして一行へ迎えた。君も僕の顔を潰すような真似はしたくないだろう?」
リュゼルが黙ると、セルヴァンの指が肩から離れた。
「行こう。神器は僕たちを待っている」
封印紋の先は、広大な円形の祭殿だった。
天井は闇に沈み、石柱が祭壇を囲んでいる。床一面の銀の封印線は、中央の黒い剣へ集まっていた。
剣は、白骨で組まれた祭壇へ深々と突き刺さっている。
光を吸う刃の鍔には、黒い雫を象った石が嵌め込まれている。飾られているというより、何かを縫い止めているように見えた。
祭壇の下から、ひどくゆっくりとした軋みが響く。
呼吸だ。
「触るな」
リュゼルは籠を捨てるように下ろした。
「その剣が封印の要だ。抜けば下にいるものが目覚める」
エルディンが青ざめ、ガルディスさえ床へ視線を落とす。
だがセルヴァンは祭壇の前に立ち、黒い柄へ手を伸ばした。
「これほどの魔力だ。大神殿が示した神器に間違いない」
「神殿の地図は祭壇までしか示していなかった。剣を抜けとは書かれていない」
「僕には分かる」
セルヴァンの声は静かだったが、耳の後ろが赤くなっていた。
「聖印が、この剣を求めている」
右手の聖印は清らかな白ではなく、黒い刃へ引かれるように青白く明滅していた。
「それは呼ばれているんじゃない。呑まれようとしているんだ」
「黙れ!」
初めて、セルヴァンの声から外向きの穏やかさが剥がれた。
黒い剣が引き抜かれる。
刃と骨が擦れ合う音は、巨大な扉の閂を外す音に似ていた。
銀の封印線が一斉に消えた。
祭殿が沈む。
石柱の隙間から白い腕が一本、また一本と伸び、床を掻いた。細い女の腕、節くれ立った老人の腕、鎧の残骸をつけた兵士の腕。祭壇の下で絡み合っていた無数の骨が、粘ついた肉の音を立てて起き上がる。
浮かび上がった女の骸の肋骨には、声なく泣く幾百もの頭蓋が詰まっていた。腰から下の代わりに、千に届こうかという腕が床と柱へ張りついている。
《千腕の骸母》。
空洞の眼窩がセルヴァンを向く。
「陣形を取れ!」
セルヴァンが黒い剣を構えた。ガルディスは塔盾を打ち立て、エルディンが炎の輪を広げる。ミレアナの聖杖から白い防壁が立ち上がり――四人だけを包んだ。
腕の群れが押し寄せた。
塔盾が軋む。焼かれた腕が灰になるより早く、新たな腕が胸郭から生えた。天井から伸びた指がエルディンの足首を掴む。
リュゼルは荷の中から投げ縄を抜き、柱へ回して彼の腰を引いた。
「炎を上ではなく床へ! 腕は封印線の切れ目から出ている!」
炎が床を舐め、腕が怯んだ隙に彼の足が解放される。
「聖剣が通らない!」
ガルディスの叫びに、セルヴァンの顔が歪んだ。黒い剣は骸母の骨へ浅い傷を残すだけで、抜くたびに刃へ白い指が絡みつく。
「一度戻るしかないわ!」
ミレアナが悲鳴を上げた。
その言葉を待っていたかのように、セルヴァンが胸当ての内側から銀色の円盤を取り出した。大神殿から授けられた緊急転移盤。表面には、四つの窪みがあった。
四つ。
リュゼルは、それを初めて間近で見た。
「セルヴァン……それは」
「エルディン、起動しろ! ガルディスは十息持たせろ!」
銀盤から四本の光が伸びる。転移陣には、初めから四人分の立ち位置しかなかった。
エルディンは唇を噛み、リュゼルと目を合わせない。ミレアナの顔から血の気が引いていく。ガルディスだけは驚きもせず、塔盾を構えたまま笑った。
誰一人、人数を数え直さなかった。
「最初から……知っていたのか」
返事の代わりに、セルヴァンが腕を掴んだ。
助けて陣へ引き入れるのだと、一瞬だけ思った。
幼い頃、増水した川で足を取られた時にも、彼は同じ手でリュゼルを引き上げ、ずっと友達だと笑った。
その手が今、傷ついた腕を捻り上げる。
腹へ白銀の長靴がめり込んだ。
息を吐くことさえできず、リュゼルは光の陣から弾き出された。床へ倒れた身体のすぐ横を、骸母の指が抉っていく。
「最後まで役目を果たしてくれ」
セルヴァンは微笑んでいた。
「俺が残れば、骸母が俺を狙う。その間にお前たちは逃げられる。……そういうことか」
「君にもできることはあると、昔から言ってきただろう?」
ミレアナの目から涙が溢れた。
「リュゼルさん、ごめんなさい……。でも転移盤には四人しか入れないの。ここで全員が死ぬより、あなた一人が残るほうが……」
彼女は泣いていた。
それでも一歩も陣から出ず、差し出しかけた手は胸元で固く組まれ、祈りの形へ変わった。
「あなたの尊い犠牲を、神はきっと――」
「祈るな」
掠れた声に、ミレアナの肩が震えた。
「俺を置いていくお前が、俺のために祈るな」
ガルディスの顔には安堵が浮かんでいた。重荷をようやく処分できるという、隠しもしない安堵だった。エルディンは青ざめたまま顔を背ける。
骸母の腕が床を埋め尽くし、転移光が四人を包む。
リュゼルは身体を起こし、反対側の柱へ走ろうとした。都合のよい生贄として立ち尽くすことだけは拒みたかった。
背後で聖剣が鳴った。
セルヴァンが床へ刃を突き立てる。
白い亀裂が、リュゼルの足元まで一気に走った。
「なぜ……!」
「封印を壊した者が生きていては困るんだ」
光の中から、穏やかな声が届く。
「地上では、君が神器を盗もうとして封印を破ったことにする。僕たちは止めようとしたが、君は骸母に呑まれた。荷物持ちの身で力を望んだ、哀れな男として皆が記憶するだろう」
「俺は、お前の失敗を誰にも話したことはない」
「知っているよ」
セルヴァンは笑みを深めた。
「だから今まで傍に置いてやった」
床が崩れた。
最後に見えたのは、四人の顔だった。
ミレアナは涙を流しているだけで手を伸ばさない。ガルディスは肩の力を抜き、エルディンは最後まで目を伏せていた。
そしてセルヴァンは、笑っていた。
リュゼルの身体は、砕けた祭壇の破片とともに奈落の闇へ呑まれた。
落下する間、声は出なかった。
青い燐火が星より小さくなる。剥がれた靴と薬瓶と鍋が、長く仕えた日々の残骸のように闇へ散った。
役に立てば、いつか必要とされると思っていた。
痛みを堪えれば、幼なじみの隣に立つ資格を失わずに済むと思っていた。
だが彼らが惜しんだのは、荷を運ぶ背中だけだった。
暗闇の底が、不意に迫った。
衝撃とともに、全身の骨が砕ける音を聞いた。
息が止まり、何も見えなくなる。血の温かさだけが身体の下へ広がり、冷たい石へ奪われていく。
どれほど意識を失っていたのか。
重い呼吸の音で、リュゼルは目を開いた。
目の前に、黒い山が横たわっていた。
盾より大きな鱗だった。岩鎖に貫かれ、片翼を失った古代の黒竜が、金色の瞳でリュゼルを見ていた。
その瞳に敵意はなかった。
ただ、終わることさえ許されず、長い時を耐えた者の疲労があった。
呼吸のたび岩鎖が傷を広げ、黒い血が石を焼いた。焦げた匂いが漂う。
死にかけている。
自分と同じように。
リュゼルは動かない右手を引きずり、黒竜の鼻先へ触れた。逃げろと警告する本能さえ、もう残っていなかった。
「……俺には、治せない」
血で塞がりかけた喉から、かすかな声が漏れる。
「痛みを、少しだけ……軽くすることしか」
金色の瞳が、ゆっくり細められた。
リュゼルは最後の力で《看取り人》を発動した。
黒竜の苦痛が、一息に流れ込んだ。
千年にわたり岩鎖で貫かれた痛み。片翼を奪われた灼熱。仲間の断末魔。守るべき幼い影へ届かなかった爪。空を奪われ、名を奪われ、それでも死ねなかった永い孤独。
砕けた身体が仰け反った。叫ぶ息さえ残っていない。右腕の血管が黒く浮かび、心臓が止まりかける。
それでも手を離さなかった。
「もう……いい」
誰に言うともなく、リュゼルは囁いた。
「ここには俺しかいない。だから、もう耐えなくていい」
黒竜の呼吸が、静かにほどけていく。
金の瞳から、熱い雫が一つ落ちた。
その瞬間、竜の胸から黒金の炎が溢れ、リュゼルの右腕へ流れ込んだ。
空を覆う二枚の翼。
国を焼き、同時に凍える子らを温めた炎。
竜哭王と呼ばれた古き王の記憶。
そして、果たせなかったただ一つの願い。
――鎖の先に残した娘を、自由な空へ。
それらが言葉より深く、魂へ刻み込まれる。
外れ職能と蔑まれた名が、内側から砕けた。
《看取り人》ではない。
死者の最期を受け入れ、その生と願いを継ぐ原初の職能。
《葬送者》。
黒銀色の墓碑紋が右腕を這い上がり、潰れた骨を包んだ。胸の奥で黒金の炎が脈打つ。失われたはずの右目に熱が集まり、暗闇が黄金の光の中へ輪郭を取り戻していく。
黒竜はもう動かなかった。
けれど、その最後の鼓動はリュゼルの内で鳴っていた。
遠い闇の向こうで、鎖が揺れた。
ひどく小さな、けれど確かな金属音だった。
やがて、長い沈黙に慣れきった少女の声が漏れる。
「……竜哭王が、後継者を選んだ?」
王域の紫光が闇の向こうに見えた時、リュゼルは自分でも気づかないうちに息を吐いていた。骨の谷を離れてから何度も背後を振り返り、地図へない分岐を二つ避け、途中で一度だけ魔物の気配をやり過ごした。正体の分からない八人目の骨については、その場を荒らさず位置だけを記録し、改めて調べることにした。墓碑紋はいまだ右腕の内側で鈍く疼いていたが、城へ近づくにつれて頭の内側を満たしていた死者の声は遠ざかり、代わりに聞き慣れた水音が戻ってきた。「結界は無事ね」隣を歩くネフィリアが呟いた。疲労を悟られまいとしているのか背筋は伸びていたが、歩調は城を出た時より遅い。足元を漂っていた影鳥が一羽、主の帰還を待ちかねたように旋回し、黒紫色の尾を引きながら門の内側へ飛び込んでいった。「子どもたちも問題なさそうだな」リュゼルは結界の向こうへ目を凝らした。気配が五つ固まっている。何かあれば奥の小部屋へ逃げるよう命じていたが、少なくとも今は広間近くに集まっているらしい。後ろから歩いてくるイセラは、何も言わなかった。包帯を巻き直した左腕を庇うような仕草も見せず、琥珀色の瞳で城を観察している。黒豹の耳は前を向き、長い尾は低い位置でゆっくり揺れていた。昨夜まで一人で奈落を歩き続けていた女にとって、他人の住処へ足を踏み入れるというだけで警戒する理由には十分なのだろう。三人が結界を越えた途端、空気の温度が変わった。冷えた奈落の湿気が背後へ遠ざかり、王域に満ちた穏やかな熱と清浄な水の匂いが肌を包む。ネフィリアの肩がほんの少し下がったのを、リュゼルは見なかったことにした。その直後、回廊の奥から激しい足音が聞こえた。「リュゼル!」最初に飛び出してきたのはシュカだった。その後ろから他の子どもたちも走ってくる。最年少の少女など靴を片方きちんと履けておらず、踵を踏んだまま、それでも止まる気はないらしい。「走ると転ぶぞ」言い終わる前に、シュカが腹へぶつかった。続いて左右から小さな身体が次々と外套へまとわりつき、重い背嚢を背負ったままのリュゼルは危うく後ろへ倒れそうになる。数日前なら困惑していただろうその重みを、今は反射的に両腕で支えていた。「遅い!」「ちゃんと戻るって言っただろ」「でも遅い!」「予定より少しだけだ」「いっぱい遅い!」言い争いながら、シュカの目が赤いことに気づく。眠れていなかっ
七つの墓を背にしたまま、イセラは夜明けのない空洞を見つめていた。奈落の深層には朝も夕暮れもない。時間を示すものは灯石の燃え方と身体の疲労だけで、骨の谷には相変わらず白灰色の闇が横たわっている。昨夜掘った墓の土はまだ乾いておらず、掘り返した岩粉の匂いに、古い骨と血の残滓が混じっていた。リュゼルは出発の支度を整えながら、何度かイセラの背中へ視線を向けた。彼女は動かない。七つの墓標には、それぞれ湾曲刀の先で刻まれた名がある。ハルク。セラド。ナージャ。ヴァド。ルース。ミア。そして、最も小さな墓に刻まれたリナ。文字は均一ではなく、最後の名だけ少し深かった。「行かないのか」リュゼルが声をかけると、イセラの黒い耳がわずかに動いた。「どこへ」「昨日の続きを調べる。谷の北側に食べられそうな菌床があるかもしれない。戻り道も別に一本探す」「その後は」「城へ戻る」イセラはそこで初めて振り返った。昨夜より顔色は戻っているが、左腕の包帯にはまだ薄く血が滲んでいる。琥珀色の瞳はいつも通り鋭く、それでも墓を見つける前より、ほんのわずかに疲労の色が濃かった。「私は行かない」リュゼルは驚かなかった。「分かった」あまりにも簡単に答えたためか、イセラが眉を寄せる。「止めないのか」「止めてほしいのか?」「そうは言ってない」「なら止めない」ネフィリアは少し離れた岩へ腰掛け、二人の会話を聞いていた。紫紺の瞳だけが行き来する。イセラは鼻を鳴らした。「私は群れに入るつもりはない」「うん」「誰かに守られる気もない」「分かった」「命令されるのも嫌いだ」「それは見れば分かる」「……お前、本当に腹が立つな」「何でだ」「普通はもう少し引き止める」「引き止めたら残るのか?」イセラは答えなかった。リュゼルは背嚢の紐を締め直した。彼女には行く場所がない。その言葉は昨日、墓を掘り終えた後の沈黙の中で聞いた。地上へ戻れば、昔の奴隷商やその後ろにいた組織に見つかる可能性がある。獣人の集落へ戻る道も失われている。仲間と呼んだ者たちは、今、目の前の土の下にいる。それでも。行く場所がないことと、誰かの場所へ入ることは同じではない。リュゼル自身、それを誰より知っている。「来たくなったら来ればいい」何でもないことのように言う。イセラが鼻で笑った。「場所も教えずに
骨の谷を進むほど、イセラの足取りは遅くなっていった。道に迷っているわけではない。むしろ、忘れたはずの景色が一つずつ戻ってきているようだった。白く乾いた骨の斜面を越え、岩壁が細く裂けた場所へ入るたび、彼女の黒豹の耳が小さく動く。鼻先が風を拾い、琥珀色の瞳が足元の石や壁の傷を確かめる。そのたびに立ち止まり、しばらく何も言わず、また歩き出す。リュゼルは少し後ろを歩いていた。先頭を譲ったのは、道を知っているからだけではない。ここから先は、イセラの場所だと思った。足元には、誰かがかつて通った痕跡が残っている。灰色の岩へ半ば埋もれた布片。長い年月で色は失われているが、端に赤い刺繍糸が一本だけ残っていた。イセラがしゃがむ。指先で布へ触れようとして、止まった。「知ってるのか」リュゼルが尋ねると、彼女はしばらく答えなかった。「ハルクの外套だ」低い声。「赤い糸を縫ったのは、ミアだった」誰なのか説明はしない。それでも、それが仲間の誰かであることは分かった。イセラは布を拾わなかった。ただ一度だけ指先で端を撫で、立ち上がった。少し先では、折れた矢が骨の間へ刺さっていた。鏃は錆びている。軸の木は腐り、半分ほどしか残っていない。「これは?」リュゼルが訊く。イセラは見ただけで分かったらしい。「セラド」「弓を使ってた?」「ああ」短く答え、矢の横へしゃがむ。「下手だった」「弓兵なのに?」「本人は上手いと思ってた」わずかに口元が動いた。笑みとは言えないほど小さい。それでも、これまでのイセラにはなかった表情だった。「止まってる標的には当たった。動いてる相手には、よく外した」「それは結構まずいな」「だから私が先に脚を切ってた」「なるほど」「本人は『連携だ』って言ってた」今度こそ。イセラの口元がほんの少しだけ緩んだ。すぐに消えた。その後も痕跡は続いた。石の隙間に挟まった獣人用の耳飾り。小さな牙を三本束ねた首飾り。切れた革紐。竜人が身につける爪飾り。どれも朽ちかけている。どれも。イセラには分かる。「ここを通った」彼女が呟く。「間違いない」声が少しずつ固くなっていた。リュゼルの墓碑紋は、谷へ入った時から熱を持ったままだった。耳に聞こえない声が、絶えず頭の奥へ流れている。《暗い》《帰りたい》《誰か》
イセラの視線は、リュゼルの右腕から離れなかった。黒銀色の墓碑紋は、灯石の青白い光を受けても光らない。むしろ周囲の明かりを吸い込むように沈み、皮膚の下へ食い込んでいる。骨の谷を吹き抜ける冷たい風が外套の裾を揺らし、積み上がった無数の骨が微かに擦れ合った。かさり、かさりと乾いた音が続くたび、リュゼルの頭の奥では、まだ消えきらない死者の囁きが薄く重なっていた。イセラはその音とは別の何かを聞いているように、黒豹の耳を後ろへ伏せた。「死人を連れてる」もう一度、低く言う。「一人や二人じゃない」リュゼルは腕を下ろしかけたが、イセラの視線がそれを追ったため、止めた。「連れてるって言われても」「とぼけるな」湾曲刀へ手が伸びる。抜いてはいない。それでも、いつでも抜ける位置だ。イセラは一歩だけ距離を取った。「屍喰らい」その名を聞いた瞬間、ネフィリアの表情が変わった。「何ですって?」声が冷える。イセラは彼女へ視線を移さない。「奈落で昔から言われてる怪物だ」「怪物?」リュゼルが眉を寄せる。「死体を食う。死んだ奴の力を奪う。剣士を食えば剣を使えるようになり、術師を食えば術を盗む。何百人、何千人と食って、最後には自分が誰だったかも分からなくなる」イセラの琥珀色の瞳が、墓碑紋を睨むように細まる。「身体中に黒い墓印が広がって、最後は人間の形すら失うって話だ」骨の谷の空気が、一段冷たくなった気がした。リュゼルは反射的に右腕を見る。紋様は手首から前腕へ伸びている。最初に現れた頃より、明らかに広がっていた。古代魔獣ヴァルディオスを看取った時。その力と記憶を受け継いだ時。さらに死者溜まりへ近づき、無数の声を聞くようになってから、黒銀色は以前より濃くなっている。最後には人間の形すら失う。その言葉だけが、嫌に耳に残った。「違うわ」ネフィリアが前へ出る。彼女の足元から黒紫色の影が薄く広がった。攻撃ではない。ただ、リュゼルとイセラの間へ割り込むように。「彼は奪っていない」イセラがようやくネフィリアを見る。「随分と信じてるんだな」「知っているだけよ」「何を」「彼がどうやってその力を得たのか」イセラの耳が僅かに動く。「死人本人に聞いたのか?」「そうよ」即答だった。今度はイセラが黙った。骨の谷に、遠くで骨片が崩れる音が響く
血に濡れた大剣は、持ち主を失っていた。石床へ深く突き立った刃の脇に、半ば白骨化した巨躯が横たわっている。鎧の隙間から覗く骨格は人間より明らかに大きく、砕けた兜の左右には角らしきものが残っていた。死んでからどれほど経つのか分からない。それなのに刃へ付着した黒い液体だけは乾いておらず、灯石の青白い光を濡れたように返している。だが、リュゼルの目を奪ったのは大剣でも死体でもなかった。その向こうに、途方もなく広い谷があった。岩壁に囲まれた空洞という言葉では足りない。天井は灯石の光が届かないほど高く、左右の壁も闇の奥へ消えている。谷底を埋め尽くしているのは土ではなく、骨だった。獣の肋骨、人間の頭蓋、角を残した魔族の骨格、翼膜だけが黒く乾いた竜種の残骸。それらが幾層にも積み重なり、白灰色の斜面となって遥か奥まで続いている。そして、その骨の海の中央で。一人の女が戦っていた。褐色の肌。顎のあたりで鋭く切り揃えられた黒髪。頭頂から生えた丸みのある黒い耳は、獣のそれだった。腰の後ろから伸びる長い尾が、身体の動きに合わせてしなやかに揺れている。獣人。女は二本の湾曲刀を握っていた。右の刃で襲いかかる骨蜘蛛の前脚を受け流し、左の刃を胴体の下へ滑り込ませる。硬い外殻が擦れ、火花が散った。刃先が奥に隠れた黒い核を正確に穿つと、巨大な蜘蛛の身体が一瞬硬直し、そのまま何百もの骨片へ崩れ落ちる。「速い……」リュゼルは思わず呟いた。実戦経験の差は見ただけで分かった。踏み込む位置。刃の角度。次の敵を見る視線。一つの動作が終わる前に、すでに身体が次へ向かっている。無駄がない。それでいて機械的でもない。足場となる骨が崩れることまで計算し、滑るなら滑る動きのまま刃を振るう。自分より遥かに強い。少なくとも今のリュゼルが、正面から一対一で勝てる相手には見えなかった。それでも。「まずいな」女の左腕から血が流れている。肩口から肘にかけて大きく裂けており、黒い革鎧が赤黒く濡れていた。動くたびに傷口が開き、血が指先を伝って湾曲刀の柄へ落ちている。骨蜘蛛はまだ十を超えていた。死者溜まりの魔力を吸って動いているのか、身体の大部分は獣や人の骨を無造作につなぎ合わせたような形をしている。一体倒しても、周囲の骨山から新たな脚が突き出してくる。「行くぞ」リュゼルが踏み出した。
城を出てから、およそ二時間が過ぎていた。奈落に太陽はなく、空の色で時刻を測ることもできない。それでもリュゼルは歩数と休憩の回数、灯石の燃え方を身体に刻み込むようにして時間を数えていた。最初の一時間ほどは、城の周囲と大きな違いのない岩の通路が続いた。湿った灰色の壁、ところどころに群生する青苔、天井から落ちる冷たい水滴。シュカたちが話していた赤い岩場も通り抜けた。地熱を含んでいるらしく、掌を当てると人肌ほどのぬくもりがあり、そこだけはわずかに硫黄に似た匂いが漂っていた。ネフィリアは何も言わず歩いている。歩幅は一定だった。少なくとも、そう見えるようにしていた。リュゼルは前を向いたまま、背後から聞こえる足音へ意識を向けた。右、左。右、左。革靴が石を踏む音は乱れていない。ただ、最初より一歩ごとの間隔がわずかに長くなっている。呼吸も静かだが、時折鼻から深く息を吸っていた。まだ休ませるほどではない。そう判断し、リュゼルは自然なふりをして歩く速度を少し落とした。すぐ後ろから声が飛ぶ。「私に合わせているの?」「道が悪くなっただけだ」「今までと変わらないけれど」「石が滑る」「乾いているわ」「細かい砂がある」「ないわね」間を置いてから、リュゼルは振り返った。「元気そうだな」ネフィリアは紫紺の瞳を細めた。「喧嘩を売っているのなら買うわよ」「元気ならいい」それだけ言って前へ向き直る。背後で小さく息を吐く音がした。怒ったのか、呆れたのかは分からない。ただ、歩調はそのままになった。やがて通路の幅が広がり始めた。最初に変化へ気づいたのは匂いだった。湿った土とも、腐肉とも違う。乾いた骨を砕いた時に漂う、わずかに粉っぽい匂い。リュゼルは足を止める。灯石を高く掲げた。青白い光が壁面を滑る。そこから何かが突き出していた。白い。細長い。「骨……」近づく。岩壁へ半ば埋もれるように、人間ほどの長さを持つ骨が一本突き出している。大腿骨に見える。だが、太い。人間のものより一回り大きい。さらに灯石を横へ向ける。一本だけではなかった。壁のあちこち。石の割れ目。床。天井近く。数えきれない骨が、岩と一体化するように埋まっている。ネフィリアが隣へ並んだ。「魔物だけではないわね」「ああ」すぐ近くの壁には、明らかに人間の頭蓋骨が







